映画「紙の月」 一本勝負!

映画「紙の月」

※今回の記事では、公開中の映画「紙の月」について、かなり激しい内容を書いています。重大なネタバレはしていないつもりですが、ストーリーやテーマ、及びその解釈について、突っ込んだところまで紹介しています。事前の情報を全く入れないで映画を見たいという方は、見た後で読まれることをお勧めします。この映画を全く知らなかった、あるいは知っていても見る気はなかったという方には、見て損はない作品だと申し上げたい。そして、観賞後にこの記事を読まれた方がどう思われたか、ぜひお聞きしてみたいと思っています。

ペットシッターの春名です。11月の三連休はかなりのご依頼を頂き、忙しく過ごしました。その反動で月の後半には時間ができましたので、映画を見に行ってきました。選んだのは邦画の「紙の月」。大傑作「桐島、部活やめるってよ」を撮った吉田大八監督の最新作となれば、見に行かない訳にはいきません。周囲からは絶賛の声も聞こえてきます。

しかし結果として、期待したほどの出来ではありませんでした。宮沢りえさんをはじめ、俳優陣に不満はありません。苦手な大島優子さんでさえ気にせずに見られました。ある女性が犯す横領にまつわるハラハラは確かに面白くはありますが、それはテレビの2時間ドラマでも味わえる薄っぺらなサスペンスに過ぎないと感じたのです。
「悪くはないけど、深みもないなあ――」
そんな気持ちを抱えながら、僕は劇場を後にしました。それでもどこかが引っかかり、大事なことを見逃している気がして、帰宅してからずっと考えていました。ネットにはかなりの賛辞が並んでいます。そこでの感想が僕にはあまり納得できず、その反論を考えているうちに違和感の謎が解けていき、少しずつこの映画の本質が見えてきました。

ちなみに映画館は家から自転車で数分のところにあります。最近システムが変わり、独自のポイントカードから、クラブスパイスカードというユナイテッド系共通カードになりました。毎週金曜は1000円になるなど特典が充実しており、ちょうど無料で一回見られる分のポイントが溜まっていました。そこで僕は翌日にもう一度、この映画を見てみることにしました。2日続けて同じ作品を見るというのは初めての経験でした。二回目の鑑賞後、僕の評価は大きく変わりました。そして僕は自分のサイトではなく、こちらのブログに記事を書こうと思い立ちました。それは、前回の読書会の課題図書だった「松浦弥太郎の新しいお金術」に通じるテーマが、この映画に隠されていたからです。

順を追って説明しましょう。ストーリーはこんな感じです。

平凡な主婦だった梨花(宮沢りえ)は、銀行の契約社員として働き始める。真面目に成績を伸ばしていくうち、訪れた顧客宅で大学生の光太(池松壮亮)と知り合う。互いに惹かれ合った二人は関係を持つようになるが、光太に多額の借金があることを知った梨花は、勤め先の銀行から金を横領し、光太に渡す。梨花はその後も横領を続け、光太との偽りの生活のために巨額を注ぎ込むこととなる――。

ネットの感想でもっとも多く、そして僕が最も腑に落ちなかったのが、ある二人の人物の捉え方でした。小林聡美さん演じる隅(すみ)という女性、それから大島優子さん演じる相川。この二人は原作にはない、映画オリジナルのキャラです。隅はベテラン行員で、常に正しい行動をとり、些細なミスも見逃さない厳しい女性です。対する相川のほうは、仕事にも私生活にもルーズな、“軽い奴”。隅が善の象徴、相川が悪の象徴として描かれているというのが一般的な解釈らしいのですが、僕はそこに大きな違和感を覚えました。

紙の月-大島優子確かに相川は倫理観に乏しく、実際に罪を犯してもいます。梨花に対し、悪のささやきめいた言動を繰り返すところなど、悪の象徴と言えなくもありません。でも映画をよく見ると、相川が梨花に「お金なんかちょっと借りてまた戻しておけばいいんですよ」と言うのは、梨花が既に顧客の一万円を使ってしまった後の話です。同様に、相川が「自分のやりたいようにすればいいんですよ」と不倫を促すのは、梨花が既に光太との関係を結んだ後のことです。つまり、実際には相川の“悪のささやき”のほうが、梨花の行動を後追いしているのです。相川の言葉が梨花の行動を裏打ちしているとは言えますが、決して、相川の影響で梨花が変わったわけではありません。相川と梨花とでは、同じような罪を犯しているようで、実は根本的な違いがある。だから、「相川の言動に乗せられて梨花が犯罪に手を染めてしまう」という捉え方に、僕は賛同できませんでした。

紙の月-小林聡美いっぽう、隅が善の象徴というのも納得できません。本当にそうしたいのなら、ああいう造型ではなく、もっと穏やかな人格者、皆に好かれ尊敬される人物を持ってくるべきです。本作でなら、BMWを買い替える夫婦の妻のような存在が妥当なところでしょうか。そして穏やかに自分の善性を梨花に見せつけ、価値観を揺さぶる存在であるべきです。隅との関わりの中で、梨花の行動に揺らぎはまったくありません。隅という女性は結局、「善」というよりはただのお目付役であり、サスペンス要素を展開させる作劇上の装置に過ぎません。だいたい、隅=善、相川=悪というなら、隅と相川の対決がどこかでありそうなものですが、相川は簡単に舞台から去っていきます。そもそも相川の存在も隅の存在も、梨花にとってさしたる大きな意味はなかったのです。

紙の月-池松壮亮さらに、光太との恋愛に溺れて梨花が理性を失ったという指摘もあるようですが、僕はこれにもくみしません。光太は別に金をせびるわけでもなく、梨花にぜいたくをさせてもらえるから一緒にいるわけでもない。なので、光太がいわゆる“金のかかる男”だったから梨花が横領に走った、という説明はつきません。「梨花が光太に惹かれる理由がわからない」「二人が関係を結ぶのが唐突だ」という意見があるようですが、当たり前の話です。そもそも梨花は、光太に男性的魅力を感じて近づいたわけではないからです。それではなぜ梨花は光太を選んだのか。僕が考えるかぎり、そもそも梨花が犯罪に走るのは、「相川の考えに乗せられた」からでもなく、「光太との恋愛に溺れた」からでもありません。

梨花が罪を犯す本当の理由は何か。
お待たせしました。ここで松浦弥太郎さんの登場です。
「松浦弥太郎の新しいお金術」に出てきた、“お金さんが喜ぶ使い方をしよう”というなんともほっこりとした提案に、この映画の痛切なテーマが潜んでいるのです。

紙の月-平祐奈重要なシーンは、冒頭から出てきます。昔、ある中学校で行われていた、海外の貧しい子供達への募金活動のシーンです。少女が5万円を封筒に入れています。彼女の年齢に似つかわしくない額のお金です。これが梨花の、中学生時代の姿です。募金活動においては、自分の出せる範囲内の額を出すようにと指導されます。梨花は、自分の小遣いだけでは飽きたらず、遂には自分の親の財布から抜き取ったお金を募金に使います。そしてそのことがばれた後でも、「なぜ悪いのですか」「額が多ければ、より多くの子供達を救えるのではないですか」と反論します。

この少女時代のエピソードは、その後も劇中で平行して描かれていきます。大人になった梨花と中学時代の梨花。この両者は、実は同じ行動をしています。そこがこの映画の本質です。

彼女は常に、「与え続けて」いるのです。与えることをやめられず、与える量はエスカレートしていきますが、際限はないから必ずどこかで破綻する。なぜそうするのかは描かれませんが、恐らく彼女は決定的に愛情に飢えています。愛を得られなかったという絶望的な挫折があって、その後の人生において愛情を、つまりはその代償であるお金を誰かに与えずにいられない。お金を与えることが、果てることなく愛情を求め続ける裏返しとなっている。そう考えていくと、本作の伝えたかったことが少しずつ見えてきます。おそらく原作とは主題が違っています。原作は未読ですが、平凡な主婦が抱く心の闇、程度のことに留まっているように思います。映画はそこを突き破り、さらなる深みを表現しています。

梨花はつまり、松浦氏が提唱する「お金さんが喜ぶ使い方」を、一切していないのです。自分への投資にもならず、相手のためにもならないただの浪費。梨花のお金の使い方は、笑ってしまうほど刹那的で馬鹿げています。だから、あれだけ奉仕をされておきながら、光太は結局、別の女性を選び、離れていく。過剰に「与える」という行為は、お金を喜ばせることはできず、人を幸せにすることもできないのです。

無償の奉仕。それは一見美しい行為のように思われますが、どうでしょう。実際に誰かから過剰な贈り物をされたら、人は普通どう思うか。戸惑うはずです。そして、何らかの形で返さねばと焦るはずです。頂きものをした嬉しさよりも、借りを作ったままでいたくないと思い、お返し合戦になっていく。世の中にそうした光景はいくつも見られます。

また、与えられている限り、自分が努力してそれを手にしようとはしなくなるものです。生活保護が人を駄目にしている、アフリカ支援がアフリカを駄目にしているというような意見は、この点もっともな話です。その意味で、光太の最終的な選択はしごく真っ当なものでした。梨花の行為は光太に幸せをもたらすことができないばかりか、このままでは自分は駄目になるという不安を生じさせます。そこに気づいて逃げ出した光太は、賢い選択をしたと思います。

お金をどう使うかは、その人の人間性そのものです。梨花は、ほんのはずみで道を踏み外したわけではありません。上述のとおり、少女時代にその資質はつちかわれています。だから、善と悪の間で揺れ動くシーンはありません。おどおどした様子に見えますが、梨花は常に自分のやるべきことに一心に向かっていきます。迷いはありません。彼女は、「与えるに値する」存在を探し続けています。はじめはそれが夫だったのでしょう。この場合、お金を与えるというより、自分の時間、肉体、運命などが捧げられる対象です。そうして夫からは愛情を得られたと一時は思えた。でも、そんな関係が長続きはしません。与えることと求めることは相乗してエスカレートし、生身の人間ではそれに付き合いきれるはずがないからです。

紙の月-田辺誠一夫との決定的な断絶の瞬間は、静かだけれど見事なシーンです。梨花が自分の給料でペアの時計を買い、夫に与えます。給料で買える範囲の、さほど高くはない時計です。夫はいちおう喜んでくれますが、その後に梨花に贈り物を返します。これがカルティエの、またまた時計なのです。「これぐらいのを着けてもいいんじゃないか」と夫は言いますが、梨花にとってこの行為は、自分の与えたものが拒絶されたという意味になります。これで夫は、「与えるに値する存在」、すなわち「自分を愛してくれる存在」から脱落してしまうのです。替わりにその座に納まったのがすなわち、光太でした。梨花の与えるものに対し、最初は拒否反応をしながらも最後には受け取り、嬉しそうな表情を見せる。素直に受け取ってくれるより、いったん抵抗した後で屈服させたほうがより強い快感となる。長年こうした生活を続けてきた梨花の、ねじくれた暴力性が伺えます。

紙の月-宮沢りえ梨花の姿が逆に清々しい、という意見もあるようですが、僕にはそうは思えません。やはり残るのは、どこまでも愛を獲得できない、哀れな女性だというイメージだけです。この映画は、与える行為のおぞましさを描いた映画です。与える者と与えられる者との齟齬が引き起こす悲劇が主題です。そうとらえれば、この映画の恐ろしさが見えてきます。

吉田監督は、梨花の物語を通じて、世にはびこる「与える」行為そのものに潜む罪を問いたかった。それが僕の結論です。決して満点の出来だとは言いません。ただ、単純なサスペンスとか、「平凡な主婦の心に潜む闇」といった出来合いの言葉でこの映画を評価するよりも、こうやって見ていくことで映画の本質に迫れるのではないかと思うのです。

・映画「紙の月」公式サイト

この記事を書いた人

春名 孝
春名 孝本と動物と珈琲好きのペットシッター
読書会メンバーの中では年長組に入りますが、毎回とても楽しく過ごさせてもらっています。スロース読書会は、人付き合いもおしゃべりも得意ではない僕さえ包み込んでくれる、心地のよい居場所なのです。

ブログでは、読書会関連として、本の話題を中心にお届けする予定です。ただ、極端に遅読なため、最新本は扱えません。僕のお気に入りの本を、なんとか現代の話題とリンクさせ(ることを目標にし)つつ、映画やその他の話題にも触れていきたいと思っています。

ちなみにペットシッターとは、飼い主さんのご自宅で、ペットのお世話をする仕事です。1967年、兵庫県に生まれ、名古屋での25年を経て、岡崎にたどり着いた今。近隣市を駆け回り、いろんなペット達と触れあう、ふかふかな西瓜糖の日々。

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